「鬼滅の刃」ご覧になりましたか?リーマンのおっさんがブログに書くようになったってことはもうブームも終盤?いいやこの作品はそんなことない、作者にとても敬意を表したく。稚拙ながら僕なりの刺さりポイントを書いてみました。
目次
「鬼滅の刃」と「進撃の巨人」に共通する点
- 鬼と巨人は共に人を食う存在
- 首や腕がもげたり、血が飛び散るなどのグロテスクな表現
- 鬼や巨人の存在という謎解き
- 鬼または巨人と人間の融合 エレンは巨人になるし、妹の禰豆子は半分鬼
- 兵団と鬼殺隊は共に巨人や鬼を刃物で倒す点
- 訓練や鍛錬で強くなり、試験が用意されている 等々・・・
よく、映画であの作品のオマージュだなぁとそれとなく気づかせてくれる世界とは一線を画す、ガッツリ丸かぶり?と思うほどの設定の近さを感じた人は少なくないのではないでしょうか。引き込まれる要素がたまたま被っただけなのか・・・最初は商業的に流行らせるために真似しに行ったのではと斜に構えて見てしまっていました。 が、ごめんなさい。すごかった、、、
魅力1:多様な人間・鬼の背景に共感する
鬼滅の刃は本当にキャラクターの豊富さに目を見張ります。鬼も柱も主人公も、本当にいろいろな人間の境遇・考え方・表出の仕方の違いなど、多様な人間をの違いを見事にキャラクターに落とし込んでいます。わるーい悪役と真っ直ぐな主人公のような単純な対比構造ではなく、多様化する現代の人間の様々なあり方を表すかのように非常にたくさんの魅力的なキャラクターが縦横斜めに交差しながら登場します。進撃の巨人にも妻方やらいくつか種類はあるものの、これほどまでの個性の多様性は感じません。共感する人の年齢層や幅が広い要因にもなっていると感じます。
魅力2:人間・人生を見つめる眼差しの冷静さ、鬼に払う敬意
主人公の炭治郎は、鬼にさえ同情をするというある種ヒーロー定番の”優しさ”をもつ一方で、「失っても失っても生きていくしかないです どんなに打ちのめされようと」(『鬼滅の刃』2巻第13話「お前が」より)というように冷静に人生を見ている。人生の難しさ、人間社会の非情さ、命のあっけなさといったような、自然の一部でしかなく、儚い人間の命に対する「そんなものだよ」という冷静さを持ちつつも、鬼になった妹を人間に戻すという強烈な目的に向かって、懸命に生きている。 そして、懸命に生きているからこそ、同様に懸命に生き、もがき、悲しみを抱える人や鬼に対して、理解を示し敬意を払う姿に、人生のありようとして、芯をくったお手本のような感覚を抱くのは、僕だけではないはず。
魅力3:鬼VS人間ではななく、鬼=人間からの…
この物語を見ていくと、息たえる鬼の背景を人間の苦悩として描いているため、誰しもが鬼=人間そのものであることは感じる。 他人と比較し苦悩する。欲望に翻弄される。他者を蔑むことで、自身を肯定する。どんな偉人であっても人間である以上、エデンの園を追い出された人間が元来もつこのようなダークサイドは0にはならないというのは、人類史上最も読まれた聖書にも書いてある通りである。社会も文明がどんだけ発達しようが、いまだに生きるか死ぬかのサバイバル世界が続いているし、人を食い鬼が成長していく様はまさにこのダークサイドの肥大そのものに映ってくる。
では 「人間は鬼である」で良いのか?
魅力4:鬼である人間を切りながらも尊重し、その先をあり方を強烈に訴えてくる
「人間にダークサイドは必ずある。人間は鬼なんだし、生き残るためにはしょうが無いんだ」という事実に斬りかかり、「違う違う違う!!!」と何度も何度も何度も振り払う主人公たち。人間のもつ努力する力、成長する力、優しさ、創造性、そして仲間と協力する姿。その人間の素晴らしい側面を信じている。そして、日々の鍛錬し、勇気を持って目的に向かうことこそが、自身に内在する鬼を蹴散らすために唯一必要なことだと、強烈に訴えてくるのがこの物語の凄みである。お前はだらだら欲望に翻弄される鬼なのか、目的に向かって努力し続ける人間なのか!?と
鬼舞辻無惨の最後はどう描かれるのか、、、?
僕は物語を最後まで知らないが、無惨の最後がどう描かれるのか気になっている。人を食い散らかすことで自身を肥大化させる鬼の姿に、人を蹴落とし、利用し、人生を奪い、金を稼ぐようなこの世の支配者的な姿を重ねてくるのかもしれない。 だが、この世の支配者=悪 というような前時代的な描き方にはきっとなっていないと信じている。 金を稼いだ人間は必ずしも悪ではないし、当然支配者でもない。 金を素晴らしいことに使い、さらに力をつけ、さらにより良いことを実現していく人間がたくさんいる。 今年、ファクトフルネスという本が流行ったが、そう「世界は確実によくなっている」
話がそれたが、支配者が悪者!ではなく、鬼舞辻無惨は一個人として描かれ、力の使い方を間違っちゃっただけの存在として描かれるのではないか。誰しもが一個人として、成長し力をつけられる可能性がある。全力で頑張って力をつけろ!ただその使い方は、無惨みたいに間違えないでねと。
禰豆子たれ、炭次郎たれと言われている気がする
鬼になった妹、禰豆子は鬼の欲望、人間ダークサイドを内在させながらも振り払い、人間の素晴らしさを体現する存在として映るし、兄炭次郎はその鬼=人間のもつダークサイドを振り払い、人間の素晴らしさをし信じ、目的に向かって強く生きる存在の象徴として映っている。
人は、鬼を内在する人間として生まれて、とてつもない力をつけられる可能性がある。成長する可能性がある存在である。 その存在が、無惨のような方向に向かうのか、主人公の二人のような方向に向かうのか。
この作品が大ヒットする日本も捨てたもんじゃ無い。人間の素晴らしい可能性を信じ、たくさんの人の向かう道標となる作品を生み出した筆者並びに関係者の方々に
心から敬意を表したい