【読書メモ】現代語で読む「武士道」の真髄

本日は、奈良本辰氏訳の「葉隠」

江戸時代中期(1716年ごろ)に出された書物。肥前国佐賀鍋島藩藩士・山本常朝の武士としての心得についての見解を「武士道」という用語で説明した言葉を田代陣基(つらもと)が筆録した記録である。(From Wikipedia) これを現代語で読めるようになっています。

以下に簡単に目次を紹介しますが、鍋島家に仕える山本常朝が伝えようとする言葉は、現代も通用するものだと強く感じます。武士の道も、会社員も。共通するものが学べ、読むたびに学べる箇所が変わっていきそうな一冊になっています。

1章:いかに「生きる」か

2章:いかに「覚悟する」か

3章:いかに「仕事する」か

4章:いかに「人と付き合う」か

5章:いかに「自分を高める」か

6章:いかに「運をつかむ」か

今回、特に目に止まったポイントを振替得ておきます。

役目を選り好みして、主君や頭になる人のご機嫌を伺って、私利私欲のために立ち働こうとするものは、たとえ十度計画が成功しても、一度計画が失敗すると、すべたがダメになって、見苦しく崩れるものである。前々から心に染まった忠義への心がなく、私のためにする不正な行動、よこしまな知恵が染みついているためにそうなるのだ。

日々どんな気持ちで仕事をするか。それは場面場面でいろいろな表情を見せる。その自分の気持ちに向き合った時、実は自分のことだけを考えてしまっていたりすることは多い。その気持ちの積み重ねは結果自分に根深い「性質」を作り出してしまう。根雪構造だということの発見がありました。変なもの積み上げると変なものになる。気をつけねばと思います。

殿が、気持ちに逆らった家来に切腹を命じた際、家老が理由はないが助けるように7度も進言して、結果「理由はないが、七度まで申すことであるから、助ける時機がやってきたものと思う」と考えが変わり許された

よく、企画を通しにいって通らないからと諦めたり、上はダメだと言ったりと自分で見切りをつけることもある。しかし、本当に通したい気持ちがあれば、それはそれ相応の準備の積み重ねをともなえば、きっと最終的には実現に近づくものだということを思い出しました。 諦めた時が失敗の時ですと。

意見するとは、その相手の気質を理解し、懇意な間柄になり、平素から言葉を受けてもてもらえる状況を作り、自分の欠点をもって、それと指摘しないでも思い当たるようにし、喉が乾いている時水を飲むように、自ら望んで受け取らせる。こうして欠点が治るのが本当の意見するということ。

なかなかこんなにご丁寧なコミュニケーションは・・・と思ってしまいそうだが、本当の会話上手というのはこういうことが自然と染みついてできている人なのだと感じる。なんか憎めない、すごく説得力がる。その人に言われるとすっと受け止めてしまう。なんだかそういう不思議な力を持った人は、こんな感じで「意見している」のかもしれない。

世の中には教訓をする人は多い。その教訓を喜んで聴く人は少ない。まして、そうした教訓に従う人はさらに少ない。人間30才を越えると教訓をしてくれる人もなくなる。教訓の道がふさがって自分勝手になるので、一生涯非を重ね、愚を増して、結局つまらぬ人間で終わるのだ。道理を弁えた人には、何とか親しく近づきになって、いつも教訓を受けることである。

なるほど、つまらぬ人間に・・・。

人より優れた境地を得ようとすれば、自分のすることについて、他人の意見を聞くことである。一般の人は、自分の考えだけで動くから、一段高いところに到達できない。人と相談する分だけが一段高くなるところだ。あるものが役所の書類について私に相談された。彼は私よりも立派に書き整える能力を持った人である。人に添削を頼むところが人よりも優れているのだ。

自分で結果を出すのだと焦っていた自分に聞かせたい

一見しただけでも、その人の長所が威厳となって出てきている。謙虚な姿のなかにそのような威厳があり、物静かに行動するところにまたそのような威厳がある。言葉数の少ないところにも、礼儀の正しいところにも、行いの荘重なところにも、ぐっと口を結んで眼光の鋭いところにも、それぞれの姿の中に威厳というものが表れている。

男は自分で顔を作るものだと昔どこかできいた。その生き方が出る立ち居振る舞い。背筋を伸ばしたい。

安田右京が、盃をどこでおさめるかという心得をのべたように、大事なのは、その酒の席の最後の扱いである。人間の一生もそのようでなければならない。客人が帰途につかれるときなど、いかにも名残惜しいという気持ちが大切だ。いつあっても、気持ちが新しいというようにすべきである。これはわずかな心遣いでわかるものだ。

飲み会の最後にまで気を配る武士の心意気。おもてなしの精神に通じるものを感じます。

自分が新しく発見したことについて、このくらいで十分だなどと思わず、いつも「これではいけない、これでは不十分だ」と考えて、どうしたら真実の道理にかなうことができるだろうと一生たゆむことなく探求して、その決心を忘れることなく修行すべきである。このような修行の中にこそ真実の道理があるであろう。

自分流の落とし穴と表現されていたが、まさに。すぐに奢り、怠るは避けなければならないことだと思います。

往来の人を見ると、たいてい目を下に向けて、地面を見て通る人ばかりになった。気質が温和になったせいである。気持ちに激しいところがなければ、槍を突きまくることはできないものだ。物事を律儀や正直にばかり考えて、心が小さくなっていては、男らしい仕事はできない。時には大ボラでも吹きまくって、壮大な気持ちをもってこそ武士としての役目を果たせるというものだ」と仰せられた。

心は穏やかでもあり激しくもあり 武士の心意気には学ぶことが多いと改めて思います。時々読み返していきたいと思います。

「葉隠」は強く生きるための「実用書」である。との言葉がしっくりきました。

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