脱オジサン化 雑談

【読書感想】はじめて知る般若心教の世界

今日は般若心教。新井満氏による自由訳版を紹介。 なんとも、難しいようでとても短なような、このようにわかりやすく解説してもらうことで、呪文が言葉として身近になりました。
読んだ感想を書き留めておきたいと思います。

 般若心経を読むのと並行して、先日、NHKスペシャルで、「カラーでよみがえる東京、不死鳥都市の100年」という番組を見る機会がありました。100年前の白黒動画をテクノロジーでカラー化してみせるという番組なのですが、そこに映し出される、日本橋、銀座、東京駅前といった日常的に目にする光景の100年前が広がっていました。高速道路のできる前の日本橋や、今よりも少し大きい建物であった東京駅など、今あるものもや、関東大震災で消えてしまった建物などがたくさんあり、形あるものが常に変化し、その街を着物姿で早送りのように蠢く人の波は、誰一人として現代を生きる人はなく、その時間の流れにより映り行き変わりゆく東京の姿をよりリアルに感じることができました。 たった数分の映像にはたくさんの人の活動が写り込んでいましたが、そこに数えきれない人生・苦悩・喜び・熱意・絶望などがきっとあったのだろうとなんとなく想像はするものの、全く感じることができませんでした。 なぜ感じることができなかったのか、それは、もちろんその時代を生きていないからではありますが、 今を生きる自分の様々な感情も、長い時間のスケールの中では、実に微々たるもので、これは、色即是空、空即是色という言葉が示していることをテレビから感じたのかもしれないと思いました。  そもそも何もない所に、なんらかの意味を持って、我々が存在し、そして我々が消えた後も、そこに新たな「色」が発生し、その繰り返しが続いていく、この厳然たる事実を見た気がします。 それは、方丈記の「ゆく川の流れは絶えずして、またもとの水にあらず、淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えてかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」という一節や、平家物語の冒頭に出てくる、「盛者必衰の理をあらはす、おごれる人もひさしからず・・・」、奥の細道の「夏草や兵どもが夢の跡」といった言葉に共通点を感じるとともに、生まれては消える。消えては生まれるという、発生と消滅に焦点を当て、人生の意味への問いというテーマと、日常の忙しなさという、一見接点の少ない事柄を一つに結びつけてくれて、日々の変化の連続の中にこそ人生の意味を見出すべきだと言ってくれているような、そんな言葉だと感じました。

 「空」という言葉は、どこか、「無」に似た捉え方をしている自分がいました。昔から「無」という言葉には出会う機会が多かったように思います。無情というネガティブなイメージの言葉と音が同じだからなのか。無常、無というのは、結局すべては亡きものになる、失われる、やってもやっても、頑張っても頑張っても0になる。つまりは虚しいもの。よって人生とは虚しいもの?といった思考を持つことがあったことを思い出しました。人生とはそう簡単に思う通りにはいかない。難しいもの。そしてどう頑張ってもなかなか達成しないものと、追い込まれた自分のを許す逃げ道として、いずれなくなるもの、虚しいものであるから、気負う必要は無いと、自分で自分を納得させる言葉にもなっていたように感じます。 結局なくなるのであれば、無理をせず、のんびりと今を謳歌すればいいと、どこか現状を受け入れ、無に還るまでの仮初めの期間を 惰性で生きられれば そこそこ幸せな人生なのではないか、という気持ちになったことも少なからずあったと思います。 しかし「空」は空即是色でもあり、無であると同時に、即座に有 に変わりうる、前向きな捉え方をし始めています。全てが失われる場所は全てが始まる場所でもある。人の存在というのは、人生というのは全て終わるものであるが、全てが始められるものでもある。と「空」という言葉にポジティブな意味があるのだと感じはじめています。

 どこかの建設会社のCMで地図に残る仕事 というキャッチフレーズがあった記憶がありますが、仕事を通して何かを残そうというこのような考え方は、般若心経の考えからすると、何も地図に残らないことになってしまいます。やがて空となることを目指すことになってしまう。 となると、人生を生き切るわずかな時間の間に、目指すべきことは、なんなのか。それは形ある何かを残そうとすることではなく、何を積み上げることなのかと。実体のない、空はいくら積み上げようとしても0は0でしかなく、何を磨き何に向かい生きるのか。 改めて疑問が出てくると同時に、それは目の前の仕事や志に向かう人生を通して磨かれる、形のない何か。それは魂かもしれないし、空である世の中全体そのものが磨かれることなのかもしれない。微細な一個人の人生ではあっても、それは「空」をどう捉え、どう生き切るかによって、その世界、空そのものの磨かれ方は変わり、その後も流動的に続く世界に、形なき何かを残すことになりうるのかもしれない・・・。とぼんやり感じました。

 

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